40歳を過ぎて最高の成果を出せる「疲れない体」と「折れない心」のつくり方
先日、40歳を過ぎて最高の成果を出せる「疲れない体」と「折れない心」のつくり方という本をよんだ。著者はスキージャンプ界のレジェントこと葛西紀明氏だ。葛西さんは1992年のリレハンメルオリンピックに19歳で初出場し、先日の平昌オリンピックを含めると史上最多の8回も冬季オリンピックに出場している。まさにレジェンドだ。
ご存知の方も多いと思うが、葛西さんは歓喜に湧いた1998年の長野五輪では団体ジャンプのメンバーかは漏れており、金メダルは獲得していない。そんなレジェンドが一躍注目され初めたのはソチオリンピック。自身7回目のオリンピック出場で初めてメダル(銀メダル)を取得してからだろう。長野五輪で味わったであろう悔しさを抱えながら、そして同時代に活躍していた選手が次々と引退していくなかで、現役、しかもトップレベルの成績をおさめている姿が人々に勇気を与えている。
どんな職業であれ加齢とともに意欲や体力は落ちていくものだが、にもかかわらず中で最前線で活躍しつづけるには、必ず秘訣がある。それを学びたいと思ったのだ。本の中でハイライトした文章はたくさんあるのだが、より良い生き方・考えかた・働きかたという観点から学びを3つ書いておきたい。葛西さんの言葉をそのまま書くのではなく、あくまで、ぼくの中に残っている読後感としての学びである。
■3つの学び
・努力の質にこだわる。質とは「目的と見合っているか」「年齢と見合っているか」「わくわくするか」
・人生に停滞感を感じたらとにかく「汗をかく」。ただし、ストレスに感じない範囲で。
・目標設定も食事の量も腹八分くらいが ”ちょうど良い”
・柔軟な体は柔軟な心に通ずる
3つと言いつつ4つ書いているけれども、そこはご愛嬌。
葛西さんが伝えたかったことは終始一貫、「無理のしすぎはよくない、入れ込みすぎない」なのだと思う。読者がターゲットが、ビジネスや生活の基礎力がある程度そなわっている40代であることが前提だが、アクセル全開で突っ走り続けると、結果的に成果に繋がらないということだ。努力の量と成果が比例するのは20代~30代までで、40代になると量に頼っているとかえって成果がでない、とも書いてある。
人生100年時代にとても必要な考えかただと思う。
いまのぼくたちの寿命が本当に100歳で、健康寿命が80歳だとしよう。人は誰でもずっと健康でいたいから、この健康寿命もどんどん伸びていって85歳とか90歳になる時代も遠くないと思う。仮に健康寿命が85歳だとしたら、38歳のぼくでもあと47年間はアクティブに活動する期間がある。ぼくの場合、できればずっと何らかの仕事をしていたいし社会に価値を提供しつづけたいと思っている。23歳から働き始めているので15年間は働いたのだが、その3倍以上が残されているという計算になる!!!前の記事で心の疲れについて書いたけれども、この序盤戦で疲れ果てている場合じゃない。
人生も、ビジネスキャリアも長期戦なのだ。
一時的にのんびりしても、ハタから見たら停滞しているように見えても、焦ることはない。道のりはまだまだ続くし、旅の楽しみ方は人それぞれだ。のんびりゆったり、しかし着実に確実に進んでいく旅もぜんぜん悪くない。
この世界で確実に増えないものは時間。
だからこそ、それをのーんびり・ゆったーり使う贅沢な時間があってもいい。
そして走りたくなったらまた走りだせば良い。
もちろん、無理しない範囲で。
モチベーションが下がったときの考えかた
モチベーションを維持するということは、実は非常に難しい。
多くの人が経験しているだろうモチベーションの減退。誰もが新入社員の時には情熱とやる気に溢れ、何ごとも意欲的に取り組んでいたはずだ。しかし、やりたい仕事を任されない、上司との折り合いが悪い、疲れが取れない、プレイベートがバタバタしている・・・などさまざまな理由で、気付いたらモチベーションが低下している自分に気付く。それが入社3年目に訪れる人もいれば10年めに訪れる人もいるだろう。
■社会人13年目、初めてのモチベーション低下
ぼくの場合、それは社会人13年目になって訪れてしまった。
それまではモチベーションは自分で言うのもなんだがずっと高く、いつでもどこでもやる気に満ち溢れ、すべての業務を意欲的に前向きに、仕事の報酬は仕事という考えで猛然とはたらいていた。モチベーションが上がらない人のキモチなどわからなかったし、そんなことを言う人は自分に甘えているだけだとさえ思っていた。だが違った。
5年くらい前から、なんとなく自分が仕事中にノッていないと気付きはじめていたように思うが、2年前に明確に気付いてしまった。明らかにモチベーションが下がっている。
頑張りたいのに頑張れない。
前向きに考えたいのに考えられない。
新しいことに挑戦したいのにその気になれない。
時には会社に行きたくないとさえ思う。
こんな自分の状態は初めてだったのでショックだった。まさか自分にモチベーション低下という事態が訪れるとは・・・。それから、燃え尽き症候群についての本を読んだり、リラックスする時間を増やしたり、会社にいる時間を減らしたり。色んな工夫をこころみてわかった事がある。
モチベーション低下の原因は心の疲れ。
心の疲れは、身体の疲れよりも回復に時間がかる。
そして、心の疲れを癒やすには、
心を疲れさせている原因と距離をとらねばならない。
■仕事につかう時間を半分にすると決める
自分の心に向き合って、その心を疲れさせている原因を突き止め、その原因と距離をとるということが重要だ。本当は取り除きたいところだが、原因が上司や同僚だったり、ある特定の仕事だったりする場合、それを取り除くのは現実的には難しい。なので距離をとるのだ。原因が人であったら会話する時間、一緒にいる時間を可能な限り減らす。もちろん、その人のことも意識的に考えないようにする。原因が業務であったら、最低限やるべきことはやるとして、それ以上は深入りしないようにする。もちろんそれでは評価されないと思うが、それで良いのだ。心が疲れているときのパフォーマンスはどうせ高くないし、中途半端に頑張りを続けると心はいっこうに回復しない。休むときは休まなければならない。
ぼくも色んな事情が重なって心が疲れてしまったので、仕事に費やす時間を半分にすると決めた。と言っても、朝の8時~18時まではきっちり集中して働く。ただこれまでは、平日夜も土日も仕事をしていたが、PCは開かないと決めた。仕事のことを考えることも止めた。最初はそのようなスタンスに罪悪感を持っていたが、最近はそこに罪悪感をおぼえる感覚の方がおかしいのでは?と考えるようになった。責任を果たしているならば、それ以外の時間をどう使おうと自分の自由だ。
そうやって意識や時間の使い方を変えたのだが、不思議なことに業務は変わらずまわり続けているし、問題も起きていない。ある意味、自分が一人相撲をしていたむだな頑張りが削ぎ落とされて、業務効率があがったとさえ感じる。嬉しいような悲しいような。ガムシャラにがんばっていた自分を思い出すと泣けてくるが、少し前の自分はいろいろと空回りしていたのだろう。
■自分の心の疲れに敏感になろう
責任感が強く自責で、成長意欲も向上心が強い。そして目標達成することが楽しい、というタイプほど、自分の心の疲れには鈍感だ。意識が自分のウチにではなく、ソトに向いていることが多いからだ。そういうタイプほど心に疲れが溜まっている可能性があるので、ぜひ定期的に自分の心に向き合って問いかけて欲しい。
・いまの生活には満足しているか?
・いまの生活に楽しい時間はあるか?
・ぶっちゃけ、心が疲れたと悲鳴をあげていないか?
どんな名車であっても給油なしには走りつづけることは出来ない。長期的に走りつづけるためにはメンテナンスも重要だ。故障してからでは遅いこともある。休むこと、のんびるすることに罪悪感を感じるのは止めにしよう。
速く走ること、のんびり歩くこと、立ちどまること。それぞれにしか見えない景色があって、景色には優劣は無い。大切なのは自分がみたい景色に気付く、それを見る時間を増やすということなのだ。
キャリアに悩んだときの思考法
自分のキャリアについて悩んでいる人は多いと思う。
入社して3年目、30歳になる前、結婚・子どもが生まれるなどライフステージが変わったとき、会社がM&Aされたなど。人によってキッカケはさまざまだ。
キャリアを考えるときは多くの場合は転職が選択肢に含まれるので、上司や同僚に相談しづらい。いわゆるキャリアコンサルタントに相談しても、彼らは人材紹介で商売をしているので、どこまで親身になってくれているのか判断できない。親世代とビジネスのルールがだいぶ変わっているので、親からアドバイスをもらうことも期待できない。
「あぁ困った・・・」と感じている会社員は多いと思う。悲しいかな、ぼくも働き始めてからずっと、自分のキャリアに悩み続けている。
そんなぐたぐだ悩み続けているぼくだが、最近、解決策めいた考えかたに行き着いたので紹介しておきたいと思う。
■すべてを満たせる職場などない
■欲しいものがわからないならば、手にすることも出来ない
■自分のわくわくを取り戻そう
■キャリアデザインはライフデザインの一部だ
■すべてを満たせる職場などない
キャリアについては結局、正解というものはなくて自分で形作っていくしかないとわかっているのだが、どう形作るべきなのかで迷ってしまうのだ。書籍を何冊もよんでも、セミナーに参加しても、尊敬する人の話を聴きにいっても、いつも何かピンと来ない。常にもやもやしている自分が腹立たしくもある。
そもそも、キャリアについて考えるべき要素が多すぎるのも問題だ。収入はもちろんのこと、事業内容・やりがい・働く仲間・労働時間などなど。人によっては通勤時間なども重要な要素となるだろう。これら要素のすべてを満たす職業・職場など基本的にはないのだが、心ではそれを求めている自分がいるからやっかいだ。何かを優先すれば何かが犠牲になるにも関わらず、理想郷を求めてしまう。
ぼくは23歳から働きはじめているので、今年で社会人15年目だ。15年間もキャリアに悩み続けていると言ってもいい。
最近になって、「なぜこんなに悩みが無くならないのか・・・」と悩んでいる理由を考えてみたのだが、それでひとつの答えに行き着いた。
■欲しいものがわからないならば、手にすることも出来ない
それは、「自分がなにを求めているかを、そもそも自分がわかっていない」ということだ。欲しいものが明確になっていないのだ。欲しいものがお金でない場合、頑張って年収をあげる努力をして、実際に年収があがっても豊かにはならない。意思決定者になって会社を動かしたい!という欲求がないにも関わらず責任が重いポジションについたら不幸になるだけだ。
欲しいものが明確になっていなければ、なにを手にしてもどこかに違和感が残る。
なんか違うと思ってしまう。
ただ、自分が欲しいものを理解するというのは、実は非常に難しい。ぼくたちは幼い頃から、自分のやりたい・欲しいよりも、公共の精神の名のもとに「他人に迷惑をかけない」という考えを刷り込まれている。それはそれで、社会が平和に安定するには必要なアプローチなのだが、個人の幸福感・充実感の観点から言うとマイナスだ。自分のやりたい・欲しいに鈍感になってしまうと、なにを手にしても充実感を得られなくなるからだ。
■自分のわくわくを取り戻そう
ぼく自身、この考えに行き着いたときにギョッとした。(課題解決のために)やるべき事や(スキルアップにつながるから)やりたい事、(年収を上げるために)やった方が良い事を考えたことはあっても、本当にそれが欲しいのか?やりたいのか?それをやったらわくわくするのか?という観点で仕事を選んだことは無かったからだ。そういった自分の本当のキモチに鈍感なまま働いていたので、自分が欲しいもの、わくわくするものが思いつかないのだ。これはいかん!と直感的に思ったので、一年くらい前から、人生で一番時間を使っている仕事の時間を減らし始めた。やりたいと思えない仕事やわくわくしない仕事を減らす努力をしたのだ。もちろんその反動として、「あいつやる気ないな」「大丈夫かあいつ?」など、若干の批判は出ているが気にしないようにしている。自分では職責を果たす範囲の仕事は遂行しているからだ。
その減らした時間を、自分がちょっと興味あることや楽しいと感じる時間に使うようにしたのだ。こうしてブログを書いていること、友人と釣りにいくこと、公園をぶらぶら歩くこと、そして奥さんとの食事の時間などだ。
最初は興味があっても楽しいと思えない時間もあったのだが、最近は少しずつ変化が出てきた。自分が本当に楽しいと感じる時間が増えてきたのだ!!!
■キャリアデザインはライフデザインの一部だ
この体験を踏まえてぼくが言いたいのは、キャリアがを考える際に、仕事上のキャリアやスキルといった範囲だけで考えていても、答えはでないということ。人生全体における時間の使い方を変え、自分が楽しいと感じる時間をとにかく増やしてみること。その自分にとっての適切な時間配分が見つかったあとに、その配分で得られる収入に満足できていれば、それが理想だ。もし収入や働きがいなどに物足りなさが残ったとしたら、その配分を崩さない前提でスキルアップや努力をするのだ。ここでは生産性が非常に重要になる。こうしたアプローチはライフデザインとでも呼べば良いのだろうか。キャリアデザインはライフデザインの中の一部なのだ。
まだ自分でも考えを整理しきれていいないのは理解しているが、キャリアを考える新しい視点を持てたことには満足している。
素敵な言い間違い②
ぼくは奥さんが大好きだ。
昨年9月、17年越しの片思いを経てついにゴールイン!(結婚しました、ありがとうございます)
そんな大好きな奥さんは素敵ないい間違いが多い。思い出すだけでも癒されるので、せっかくだから?もったいないので?ブログに残しておくことにした。
ぼくたちは昨年末に引っ越しをして、いま新居を整えている最中だ。ひとつひとつ、ふたりで相談しながら家具や日用品を買いそろえていくのは楽しい。もちろん、些細なことで意見が一致せずに口論になることも多い。昨日はお風呂のシャンプー容器を決めるだけでニトリで1時間も揉めた。ふたりで物を買うってむずかしい…。
そんな日用品を買いそろえている最中のやり取り。
ぼく:「袋を止めるときのセロテープって味気ないよね。」
奥さん:「そうねー。でも止めるだけなら充分じゃない?」
ぼく:「まぁそうなんだけど。なんかもっと彩りが欲しい・・・」
奥さん:「じゃあマキシングペースでも使ったら?」
ぼく:「マキシングペース??? え、なにそれ?」
奥さん:「最近よくテレビでやってるじゃない。マキシングペース!」
ぼく:「マキシングペース…。聞いたことないな。なんかの計測器みたいだ。」
奥さん:「あれ、マキシングペースじゃない?」
ぼく:「もしかしてマスキングテープ?」
ぼく:「マスキングテープでしょ!!やべぇ、雰囲気近いけど半分以上違う(笑)」
奥さん:「きゃーーーーーー。」
そんなわけで、やっぱりぼくの奥さんは可愛いのだ。
器用貧乏から脱出する方法
■結論
ジェネラリストに未来はあるのかと言えば、未来は暗い。ただし、ジェネラルマネージャーの未来は明るい。
ちょっと具体的に考えてみた。
ビジネスの課題がどんどん難しくなっていて、中途半端な知識や経験では課題解決の糸口がつかめないという事態が発生している。経営幹部を育成するために、大手日系企業の教育システムではジョブローテーションが主軸である。
■ジョブローテーションの価値
部門横断的に業務を理解・経験して、多面的な視点で会社を捉えられるようになる事が、経営視点を養うという考え方だ。環境変化に乏しく、ビジネスモデルがある程度固定化している事業環境においては、さまざまな部門を経験することで部門横断的な課題解決を思いつけたり、判断するさいに広い範囲で一定の業務理解があるので成功確率が高くなるように思う。
ただ変化が激しい事業環境においては、5年や10年前にジョブローテションの一環でインプットした知見が通用するだろうか?答えはNOだ。
もちろん、無いよりはあった方が良いに決まっているが、意思決定に反映できるレベルの知見にはならないと思う。特にIT業界においては、テクノロジーや業界を取り巻くルールなどが絶えず変化しているため、特定領域のキャッチアップを続けるだけでも精一杯だ。たとえばアドテクノロジーの世界などが顕著だが、DSP・DMP・RTB・AI・Cookie・ITPなどさまざまな英単語が飛び交う。毎年こうした用語やテクノロジーを理解して活用するだけでも大変なわけだが、5年前にはこれら言葉はほとんど登場していない。つまり、広告業界における5年のブランクは、その業界でもう活躍出来ないことを意味する。
■ジェネラリストは帯に短しタスキに長し
多くの業界において、このようなスピード感で変化が起きている。つまり、そのような時代においてジェネラリストの価値はとても小さい。人材不足な企業においてニーズはあり続けると思うのだが、企業が成長を続けて課題が複雑で高度になっていけば、ジェネラリストの価値は逓減していく。諺でいえばあらゆる課題に対して「帯に短しタスキに長し」という人材になってしまう。経験的にだが、30代中盤まではビジネスパーソンとしての基礎力を高めるために幅広い業務を経験することが重要だと思うが、それ以降、とくに40代になってからジェネラリストの道を突き進むと年収と解決できる課題が折り合わなくなっていき、キャリアが先細ることが想定される。
■本当のジェネラルマネージャー
一方で、仕事が専門分化していけばいくほど、そもそも各部門の課題を理解すること自体が難しくなるし、横断的な課題解決はますます難しくなる。前述のように中途半端なジェネラリストは歯が立たない。求められるのは、そうした各部門の課題と本質を正しく理解し、統合解決策を考えることが出来る存在だ。これがジェネラル・マネージャーだと思う。ジェネラル・マネージャー=部長という意味合いで使われることが一般的だと思うが、ここではそのような意味ではない。部門横断で課題解決を推進できる存在としてのジェネラルマネージャーだ。
ジェネラルマネージャーに必要なのは、ジョブローテーションによる業務経験ではなく、課題の理解力や仮説構築力、解決策の着想力や思考力、そして全社横断プロジェクトを推進するビジネスドライブ力などのスキルだと思う。こうした経験は実際に全社横断プロジェクトを推進する中で養われることが多いと思うが、0から新規事業や新商品の立ち上げをすることでも得られると思う。
自分自身ががジェネラリストタイプで器用貧乏を自認しているならば、積極的に前述の仕事を取りにいくべきだ。ジェネラリストがジェネラルマネージャーへ進化する為には、本質的なビジネススキルを極限まで高めるしかない。